ドドメイロキコウ2

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拗らせ日記ʕ·͡·̫͖

ヒッパルコスの海

西岸良平の漫画。と言えば映画にもなった三丁目の夕日が有名だけど(私は夕焼けの詩がメインタイトルだと思ってた)昔読んだ父親の漫画棚にあった『ヒッパルコスの海』が印象に残っている。

 

星新一の小説の横に置かれていたのを覚えてる。内容はその並びからも分かるように、ちょっと不思議な短編を集めた漫画だった。

月の土地を買うお話と、もうひとつ、『世界の中心は自分』みたいなお話が好きだった。

 

浪人生か、大学生の男性が二人談話していて、そのうちの一人が、『俺たまに思うんだよな。世界の中心は俺なんじゃないかって』みたいな話をする。もう一人は何言ってんだよwwwみたいな感じで茶化す。

そこからラストまでの間の記憶がすっぽり抜けているので端折るけど、居酒屋のようなとこでふたりの男性が呑んでいて酔っ払い、帰る時に世界の中心説を唱えた男性が階段から落ちる。『俺は自分が世界の中心なんかじゃないって薄々気付いてたんだ』みたいなことを言ったか、その反対の『やっぱり俺は世界の中心だと思う』って言ったか忘れた😭(大事なとこなのに!)

…打ちどころが悪くて、最後の力を振り絞りもう一人の男性に哀しい笑顔でそう言い、そして目を閉じる。すると突然世界がぐにゃぐにゃになり残された男性が『あいつは世界の中心だったのか!』みたいなことを言いながらぐにゃぐにゃに飲み込まれるお話。

その人がこの世からいなくなるとその人の世界は終わる、と言った意味では『世界の中心は自分』は正しい。正しいんだけど、幼心ながらにそんなわけない!と思った。でも不思議な面白さがあってよく読んでいた。

 

そこから10数年経ち、自分探し(恥ずかしい///)をしているときに私は自分の人生の主人公ではあるけど、自分は少年漫画に出てくるような主人公*1ではないのを知った。私がもし漫画に登場しても主人公にはなれない。名前のない雑魚敵役をもらえたらまだマシな方なんだろうな。と知った。多分少しだけ客観的に物事をみれるようになったんだと思う。

少年漫画の主人公になるには主人公になる素質やら努力やら才能やら、なんやかんや備わった人じゃないと無理ゲーなのを知った。

自分の想像で思い描く自分像は少年漫画の主人公みたいな人で、愛やら友情やらなんかキラキラしたものだと思っていたけどそうじゃなかった。当時の私以外にも、『それ』に気づいて何もできなくなっちゃう人は結構多いんじゃないかなと思う。自分がただの人だと知っちゃった時の絶望感。

別に深く考えなくてもいいことだとは思うけど、思春期だったこともあり落ち込んだ。自分の立ち位置を知るって、選ばれた人間にとっては楽しいかもしれないけどそうじゃない人間にとっては残酷だ。私はずっとどこかで『自分は特別』だと思ってたみたい。全然特別じゃなかった。

そんな時ふとヒッパルコスの海のあの話を思い出した。

世界の中心は自分。の話を読み直した。

私は私の人生の、私の世界の中心だ。

当たり前のことなんだけど、自分が世界の中心の台詞が書かれている吹き出しから目が離せずずっと見ていた。

飽きて適当にパラパラページをめくったり、その吹き出しを見たりしていると落ち込んでいた理由が自分と何かを比べていたからなのが分かった。比べて、客観的にみるとゆうバリアを張りつつ卑下していた。ただの勝手な被害者意識、恥ずかしい///

比べる必要なんかないのになあ。

スッと肩の力が抜けた。

リラックスしながら、私は雑魚だ。でも雑魚には雑魚のよさがあるはずだし雑魚だからこそできる何かもあるはず!雑魚として楽しめばいっか!🐟と、自然に思えた。

ダメな自分を認めて受け入れて、でも落ち込まずに前向きに生きていく私のスタイルがこの時初めて確立されたのか、他の時が初めてだったかは忘れたけど今もそのスタイルは継続している。ダメな自分に嫌気がさしてがんばろう!って思えてたら、行動できてたら、多分もう少しまともになれていたのかもしれないけど。

 

ヒッパルコスの海のあのお話のおかげもあると思う。

 

映画のせいで(おかげで)『懐かしい』『古き良き時代』『感動する』みたいなイメージがついちゃった三丁目の夕日の漫画だけど、初期の方は結構SF色が強かったと思う。絵柄もピカソとか好きなのかな、と思うような感じだった。

SF、と聞くとどうしても宇宙をイメージしてしまうので、本当は『大人のファンタジー』って呼びたい。

 

 

 

*1:少女漫画の主人公とも言えるけど、それは恋愛面での話がメインになっちゃうから少年漫画の主人公にしといた。