苦手な人
ブログを書き始めて考えることが増えた。疑問を持つことが増えた。普段なら気にせずスルーすることを、立ち止まって考えるようになった。
昔は考えることの加減が分からず迷子になり病んだこともあったけど、今は少しだけど加減もできるので私にとって考えることはとても素敵なことだ。迷子にはなるけどそれも楽しい。きっかけをくれたしんかいさんに感謝。
日々少しずつ増えていく下書き。考えがまとまらないこともよくあって、ちょっとずつ書き足して育てている。
アンチ筋肉 とゆうタイトルの下書きがある。
たまたま見た意識高い系マッチョのことをディスる記事だ。
ドラァグ とゆうタイトルの下書きがある。
一時期ハマっていたドラァグレースに関する記事で、差別に対して少し書いてあるまだ書きかけの記事だ。
アンチ筋肉をほぼ書き終わったところでドラァグを書き始めて差別に触れた時、矛盾を感じた。
アンチ筋肉の記事の中で私は『意識高い系が苦手』と書いた。
ドラァグの記事の中で私は『よかれと思って特別視することも差別になるんじゃないか』と書いた。
ドラァグの方だけを読むと、差別反対!差別よくない!の意が感じ取れるのに、アンチ筋肉では意識高い系を差別している。
ドラァグの記事の中で私は『ドラァグクイーンである前に一人の人間』みたいなことを書いた。
アンチ筋肉の記事の中で私は意識高い系の人全般をディスるようなことを書いた。
ドラァグクイーンは好きだからこそ特別視していたのを反省する内容なのに対して意識高いマッチョは嫌いだから(嫌いって言っちゃった…)ディスった。
好きだから。嫌いだから。これは持って当たり前の感情だと思う。
…好きなことに関しての差別には敏感に反応し、嫌いなことに関しての差別には自らする側に回っている。
矛盾するのは今に始まったことじゃなくて、その時その時で考えは変わることもある。前のブログで書いたことと、今のブログで書いたことでも多分矛盾してるところはいっぱいある。
アンチ筋肉とドラァグ両方UPしたところで、矛盾にびびるのは今更感もある。
ただ、自問自答が止まらない。その場しのぎの答えでも何でもいいからなんか自分が納得する答えがひとつでも見つかれば私はこの自問自答から解放され記事をUPすることができるのに、見つからない。困った。
どんな時でも使える超便利な『人間らしくていいよね』みたいなのをここで使いたいのは山々だけど、なぜかここでは使えない気がする。
多分誰かをディスる時に生じる代償みたいなものなのかな。
公の場に何かを発信する時、私はあんまり誰かをディスる内容を書いてなかった気がする。
そこは偽善者でも何でもいいんだけど、それを言って何かの形で自分に返ってくるのが怖かったのと人の目も怖かったので言ったとしても言葉を濁したり、嫌いとゆう表現はせず苦手とか好きじゃないと書いたり言っていた気がする。
責任を持ちたくなかった。
そしてそんな自分に嫌気がさしていた。嫌いな何かをはっきり嫌いと言えない、自分の不純さが嫌だった。
アンチ筋肉の記事でもその名残は感じられて、意識高いマッチョや意識高い系を持ち上げては蹴落とすの繰り返しだ。フォローになってないフォローは読み返すとちょっと面白かった。
差別と嫌いは直結するものじゃないとは思ってる。聖人じゃないんだから好き嫌いはある。
ネトウヨが嫌い。ヤクザが嫌い。意識高い系が嫌い。いきすぎたフェミニストが嫌い。これは差別になるのかどうなのか。
ビビリなので見えにくい色で書いた。
ちょっとスッキリした。
アンチ筋肉とドラァグをそれぞれ何度も何度も読み返して、『オチが割といい具合にいった』理由だけでアンチ筋肉をUPする覚悟も決まった。この記事を書いたことによってアンチ筋肉のグダグダ感が少し面白く感じられるようになった。
ドラァグはまだ書きかけだけどいつか完成したらいいなと思う。